<114> 小学校受験の落とし穴「心焉に在らざれば視れども見えず」

次のような諺があります。

「心焉(ここ)に在らざれば視(み)れども見えず」

心が他のことに奪われていれば、視線が向かっていたとしても何も見えていないと言う意味です。本格的に受験の準備が始まると、子供のことを全く見ていない親が増えます。

頭の中では、あれが足りない、これが足りないと心配事で一杯になります。子供の顔を見つめても、思い浮かぶのは、あれをして・・・これをして・・・それから・・・と受験のことばかりです。

子供が笑っても気にしません。子供が悲しい顔をしても気にならなくなります。子供が構って欲しくてバカバカしい話をしても、聞く耳すら持たなくなります。保護者からの相談ごとは、子供のマイナス面ばかりです。

受験さえなければ、子供の小さな成長を喜んで涙するはずなのに、受験を志すと、子供の至らない点ばかりが気になって涙します。

小学校受験の怖いところは、親の視野が狭まって、子供のことが全く見えなくなることです。

視線は来るけれど、見てくれないのは辛いですよね。これは大人の世界でも同じです。上司の視線は感じても、実は部下のことを全く見ちゃいないことを知ったらショックです。夫婦でも、側にいるのに、相手の心がうわの空だったら、それは悲しいことです。

幼児だからといって、例外ではありません。

大好きな親がうわの空で、本気で構ってくれなかったら、普通の幼児ならトラウマになります。本来なら全身で愛情を受け止めて、幸せを感じなければならない年齢ですからね。親子の心の絆を断ち切るに等しいことです。

私ですか?

私は子供が言うことを真剣に聞いています。余計なことを言わずに、ただただ、ひたすら聞いています。幼稚園の話、オモチャの話、自分で考えた新しい遊び方の話、連れて行って欲しいところの話、バカバカしい話、話にならない話・・・などなど。

話すのは簡単です。話し合うのも簡単です。しかし、聞き役に徹するのは、私でも難しいことです。仕事や家事で疲れていても、子供を邪険にせずに、真剣に聞くには、大人(たいじん=徳の高い人・度量のある人・人格者・大物)としての“余裕”がないと出来ません。(私はまだまだ未熟者ですね)

話にならない話を含めて、子供の話を共有する。

これはとても大切なことです。愛する親に、言いたいことを全部言ってしまうと、子供は安心したような表情を見せます。話を共有した(させた)ことによって得られる安心感なのでしょう。

私は真剣に聞いていますよ。娘の話、息子の話、妻の話。どんなに疲れていても、おくびにも出さず、目を見て心で聞く。家族の聞き役に徹することが、父として、夫としての私の仕事だと思っています。それで家族が幸せになれるのなら、私は大満足です。

  

※過去記事の再掲載です

エスポワール らくらくさん