<118> 幼児教室の「勉強ができる子供」と「頭の良い子供」は別です

世の中には、頭が良いと言われるお子さんがいますよね。世界中の国の名前を知っていたりすると、周りの大人から、「凄いね」、「頭がいいね」と言われます。

年少から平仮名を書くことが出来るお子さん、年中で漢字が書けるお子さん、年長で掛け算や割り算が出来るお子さん、この他にも、難解なジグソーパズルを完成させたり、昆虫や電車の名前、自動車の車種を数多く知っていると、大人から、「天才だなぁ~」とたくさん誉められます。

人は認められたり、誉められたりするとドンドンと伸びる生き物なので、これは素晴らしいことです。

誉められると気持ちが良いので、もっと誉められたくて、そのことについて極めようとします。「ほら、これも覚えたよ」とか「こんなのも出来たよ」と親に披露しますよね。

親も、「もしかしたら、うちの子は天才ではなかろうか」と思うものです。こんなに利発なのだから、慶應とか早稲田の小学校に受かっちゃうんじゃないのかと思って、受験を志す親もいるかな。(いるでしょうね)

ある程度の子育てを経験している親はお解りだと思いますが、幼児期に賢いとか天才だとか言われていても、それは幼稚園や保育園までであって、小学校へ行っても、そのように言われるお子さんは極めて少数になります。

3歳で平仮名が書けても、小学生になれば誰でも書けます。年長で掛け算の九九を知っていても、小学校で習えば誰でも知ることになります。誰もが知らないことを知っていて、お友達に一目置かれることは、学校生活を楽しく送る上では素晴らしいことですが、常に皆より先へ進んでいないと埋没してしまうのです。

私は小学校1年生の低学年から教える塾の講師を経験したことがあります。この年齢ですと、親が全面的に勉強の面倒を見ているお子さんは当然に成績は良いです。子供にそれなりのエネルギーを費やせば、成績は伸びます。

ところが、「勉強が出来る子供」と「頭の良い子供」は別なのです。「勉強が出来る子供」も「頭の良い子供」も、共に良い成績を取ります。「頭の良い子供」は、勉強も出来て、更に“賢い”のです。相手の言うことを理解し、物事も深く考えることが出来るので、ディベートも得意です。自分の意見が正しいと思えば、先生に意見することも出来ます。

当時、この違いは何だろうと、子供たちを観察したことがあります。その結果、見えてきたのは、会話力と豊富な語彙です。

「頭の良い子」は子供離れした会話が出来ます。まるで大人のようにです。その会話力と豊富な語彙は、たくさんの本を読み、人生を疑似体験することによって得られたお子さんも多いと思います。

しかし、多くの「頭の良い子」と言われているお子さんは、ご両親との会話から得られていることが解りました。私が「おや?」と思うほど、大人の会話をしているのです。子供を子供扱いせず、お互いに自分の意見をぶつけて話し合っています。「頭の良い子」は、その会話の中から大人の思考を学び取っていると感じました。

その「頭の良い子」をつぶさに見てきたので、私は意識をしながら息子と大人の会話をしています。易しい言い回しはしません。妻と話すように普通に話しています。意味が解らなかったら、とことん聞くように言ってあります。そのため、話す先から、「機会ってなあに?」「遠慮ってなあに?」と聞かれるのです。

また、私が考えていることをその理由と共に教えています。話のついでに、政治や経済、天文学、哲学、世界の宗教など、まだ幼くて理解をすることが出来なくても、噛み砕きながら教えています。

大人の言葉を使いながら、勉強としてではなく、知識として世の中の物事を解りやすく教えているのです。小学校へ行くようになったら、私の子供の頃のように、図書室にある本を片っ端から読破させようと思っています。

世の中にはIQ(知能指数)を気にする親がいますが、私はそのようなものは全く気にしません。私が気にするのは、知能ではなく、成熟指数(私の造語)です。どれだけ深く物事を考えられるのか、年齢以上の常識力があるか、良心に恥じない生き方をしているか・・・

それだけです。

先日、妻が幼稚園のママ友から「太郎君(息子の仮名です)とお話をしていると、年長さんではなく、何だか大人と話をしているような不思議な感覚になる」と言われたそうです。

今のところは、何とか親の思い通りに育っているようです。

  

※過去記事の再掲載です

エスポワール らくらくさん